嵐の中の感謝の食事

  

 パウロ一行が船出した時、海は突然荒れました。ヨナ書では、主が大風を海に投げ込まれ、船は壊れそうになりました。船乗りたちは恐れ、それぞれ自分の神に叫びます。使徒言行録の嵐は南風が穏やかに吹き、「思い通りになった」と出航した直後、暴風が襲います。船は流され、太陽も星も見えず、長い間、食事も取れなかった。希望は失われた、と書かれています。嵐は、方向感覚を、時間感覚を奪います。そして、希望を奪います。

 ヨナの嵐は、不従順の結果招いた嵐でした。しかしパウロの嵐は、従順の中で起こった嵐です。嵐は、必ずしも信仰の失敗の結果ではないのです。神さまに忠実に従っていても、嵐に遭うことはあるのです。かつて主イエスの弟子たちもそうでした。湖で嵐に遭い、必死に舟をこぎながら、「主よ、私たちは滅びそうです」と叫びました。嵐は信仰者を避けません。

 長く続く暴風の中、人々は食事が出来なくなっていました。そのとき、パウロは立ち上がります。彼はパンを取り、神に感謝をささげ、皆の前でそれを裂いて食べました。嵐は止んでいませんし、助かったわけでもありません。それなのに感謝したのです。状況が望ましい方向に変化したから感謝したのではなく、神との揺るがぬ約束の故に感謝したのです。

 神はパウロに語っておられました。パウロは「ローマで証しをする」のだと。船が揺れていても約束は揺れず、約束を与えられた主は揺らぐことがないのです。

 この場面は、私たちに別の食卓を思い起こさせます。主イエスが、十字架の前夜にパンを取り、感謝し、裂き、弟子たちに与えられた食事、最後の晩餐です。裏切りと十字架の影が迫る中でささげられた感謝の食事でした。そしてこの食事が記念として受け継がれ、今に至ります。どんな歴史の嵐の中であっても、神が共におられることを告白する食卓が囲まれ続けてきたのです。パウロの船では、276人が同じパンを食べました。それは命をつなぐ食事でした。聖餐もまた、命をつなぐ食事です。嵐をすぐに止める魔法ではありません。しかし、嵐の中でも神が共にいてくださる平安に与るひとときでした。そしてキリストの永遠の命に繋がる食卓なのです。

 この食卓の中心におられる主イエスは嵐の中に立って、「恐れるな」と言ってくださる方でした。嵐に向かっても「黙れ、静まれ」と言ってくださるお方です。私たちの人生にも嵐は来ます。家庭に、社会に、教会に、そして一人一人の心の中に嵐が吹き荒れる時がある。そんな時は逃げて隠れてふて寝したくなってしまうかもしれない。しかし信仰者は、嵐の中にあっても、感謝することができるのです。強がりではありません。それは、嵐よりも大きな方を見上げることです。嵐は船を、私たちを揺らしても、神さまと神さまとの約束は揺らせません。だから、嵐の中でも、私たちは感謝の食事を囲むのです。私たちもまた、嵐のただ中であっても、主を見上げる者とされますように。特に聖餐の食卓を囲む時、この恵みを覚え、証していくことができますように。

中村恵太